大雄院
大雄院(だいおういん)は、大本山妙心寺山内の北に位置し、慶長八年(1603年)石河紀伊守光元(竜野城主)の長子石河市正光忠(のちの尾張藩名古屋城代 太郎八当時9歳)により父光元公の菩提を弔うために菩提所として創建されたもので、慧南玄譲を開祖とする。慧南玄譲は光忠の叔父にあたり、石河氏の菩提寺美濃乙津寺、二世蘭叔玄秀の法孫であって、慧南は蘭叔玄秀を当院の歓請開山としています。
ときは、豊臣時代から徳川時代へと移る過渡期にあり、極めて激しく流動した時代でした。石河光忠の母、お亀の方は大変美しく人間としての器量も秀でた女性でした。夫・光元の没後、徳川家康に見初められ後妻となり家康の子を産みました。
徳川家康公の実子と異父兄弟となった石河光忠は徳川家に大変よく仕え関ヶ原の戦いでは敵方であったにも関わらず、徳川の時代でも栄える大名家となったという興味深い経緯がございます。
現在の大雄院建築は、お亀の方が徳川家康より賜った伏見の屋敷を移築したものです。
京都府指定・登録文化財として客殿、書院、庫裏、表門があり、客殿と書院は享保十一年(1726年)に再建され、庫裏は江戸時代末期に改造されて以来の貴重なものです。なお表門にいたっては、当院創建時のものでそのまま400余年を経た姿を残しています。
客殿(本堂)の襖絵は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した、蒔絵師であり画家の柴田是真作となっており、稚松図・山水図・滝猿図・唐人物図など若かりし時代の是真による多くの肉筆画をみることができます。
柴田是真筆 大雄院本堂障壁七十二面
柴田是真 しばたぜしん
江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、絵師・日本画家。
知る人ぞ知る天才と評され、漆芸においては超絶技巧と卓越したセンスで多くの優れた作品を生み出した。その技のいくつかは、現代日本随一の名工の技術を持っても再現不可である。
現代でも人気を博す浮世絵師歌川国芳が、是真の扇絵に感動して弟子入りし、国芳に「仙真」の号を与えたという逸話が残る。
大雄院における本堂障壁図七十二面は天保元年(1830年)是真が24歳の時四条派をより深く学ぶため京都へ遊学し、修業の終わりに当院にて筆をとった。
是真はその後、江戸へ戻り活躍したが、江戸大火で多くの作品が焼失し、また軽妙洒脱でエスプリに満ちた粋な作風が欧米人に好まれ、現存する作品の多くが海外にある。
そのため国内に残る是真作品は貴重であり、若かりし是真(正確には、是真の名を名乗るより前「令哉(れいさい)」の号を使用※1)による肉筆の大作である大雄院障壁図は、柴田是真を知る上で重要な作品のひとつである。
※1稚松図の間 西側壁右下部に「令哉」の署名落款あり
四季草花図の間 向日葵図
唐代人物図の間 郭子儀図
また、現在大雄院では、今はなき是真の残した花の丸図案を襖絵として復活させるべく『襖絵プロジェクト』が発足し、新しい襖絵が完成いたしました。
明治宮殿天井画 花の丸図 下絵
襖絵プロジェクト千種の花の丸襖絵
明治皇室の御所であった明治宮殿には、千種の間という広間があり、そこには柴田是真による大作、花の丸大天井がありました。113種もの草花の花の丸が格天井いっぱいに描かれており、それは荘厳で美しい部屋でした。
その花の丸図は後世の絵師たちが描く花の丸の基本、お手本となっています。
その天井画は戦火で失われてしまったため、是真直筆の下絵(東京藝大大学美術館蔵)を残すだけとなりましたが、その下絵をもとに花の丸図を、襖絵として復活させるべく『大雄院襖絵プロジェクト』を発足いたしました。
筆をとりますのは日本で唯一人の「宮絵師」安川如風です。安川は、絵師として長年、国宝や重要文化財の復元彩色に関わり、日本の伝統芸術を守ってきた人物です。
2017年に発足したこのプロジェクトは、多くの皆様のご協力のもと
2020年秋、花の丸図43種・襖18面をもって完成いたしました。
今回完成いたしました美しい草花たちが、時代を超えて人々の心を癒し、日本芸術、美術の振興に貢献しますことを願います。
大雄院 住職石河法寛
合掌
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